ご挨拶

草創の時代

昭和30年頃 自衛隊内の工場にて

 関西化学工業株式会社(以下関西化学という)の歴史は、戦後の軍隊跡地から始まった。
 創業者の村上弘氏は愛媛県出身で、戦争により善通寺第十一師団に配属となり、戦時中は主に主計官として経理関係の任務に携わっていた。  終戦後の昭和22年(1947)に旧善通寺山砲隊が使用していた宿舎などの建物(現在、陸上自衛隊善通寺駐屯地のグラウンド西側付近)を、善通寺町長が四国財務局に住宅難緩和の目的で払下げ申請を行った。
 翌年の昭和23年8月、払い下げられた敷地の一部を村上氏が借用して、ここを拠点として昭和24年7月に芋飴を包むオブラートの生産を始めたのが当社の基盤を築いた「関西オブラート株式会社」の第一歩である。
 登記上は、「関西オブラート」と「関西化学」とは一致しないが、実質的には経営者・従業員・設備など大半を継続しているので「関西オブラート」の歴史を語らずして「関西化学」は語れない。

 数年後、砂糖が出回るようになり、さらに油紙が販売された影響でオブラート事業だけでは会社の維持存続が厳しくなることを予想して、今後は「化学品」の用途開発が急務であることを察知したのか、心機一転して自衛隊内の同じ住所で昭和32年9月2日に「関西化学工業株式会社」を設立した。

昭和23年 関西オブラート株式会社設立 オブラート生産を開始 昭和32年 関西化学工業株式会社設立

日本合成化学工業との出会い

昭和45年頃の日本合成カタログ

 昭和34年ごろ、オブラート事業の斜陽化のため新事業の構築を目指していた当社は、大阪の化学品商社からポリビニールアルコールを使用した水溶性フイルムの情報を得た。早速、当社は商社を通じて日本合成化学に接触し、原料となるゴーセノールの無償供与を受け、オブラート製造ドラムを利用した水溶性フィルム(ハイセロン)の試作を開始した。当社単独での試作は限界となったが、昭和38年(1963年)7月、日本合成化学と共同でハイセロン製造第1号機が稼働、衛生綿の個装に採用されたことにより販売量が増加し、昭和40年3月には4系列の製造ラインとなった。また、同月日本合成化学の資本参加により、資本金は10百万円に増資された。

ポリエチレンフィルム製造への転換

現在の製造設備

 国内に数十社あったオブラートメーカーのうち静岡県のメーカーがポリエチレンフィルムを始めたという情報が入り、同社に問い合わせたところ大阪の商社を紹介され、営業員が来社して、話が進んでいった。
 昭和38年(1963)頃、当社はポリエチレン押出機を設置後静岡県のメーカーに依頼して、当時製造課長を製膜技術習得のため同社に派遣し、帰社後に後輩の技術指導にあたらせた。
 固定資産台帳を見ると、最初の設備は宇部興産の高松営業所から押出機数台とポリエチレン原料を購入して、操業を開始している。
 その当時、当社は「ポリエチレン事業に転換する」という大きな賭けに出たのかも知れない。

 昭和40年(1965)頃に、ポリエチレン製の使い捨て雨合羽、当社の商品名「パーコート」を製品化して日本合成産業(現 大成化薬株式会社)などに販売していた。
 昭和45年(1970)、大阪で万博が開催された時「パーコート」が爆発的に売れ、在庫がなくなる状態が続いた。

昭和38年 日本合成と水溶性フィルムの生産委託契約を締結 昭和40年 雨合羽「パーコート」を製品化

そろばんから卓上計算機へ

初めて導入した卓上計算機

 昭和43年(1968) 9月、営業部に高嶺の花だった電子式卓上計算機が導入された。その当時、原反代・印刷代・ガゼット代・シール代など1枚の袋の単価計算はソロバンを使っていたため大変時間がかかっていた。特に高松方面の出荷伝票については朝一番、単価も記入しなければならず、スピード化が要求されていた。
 また、単価の計算は時代錯誤かと思うほどの銭、厘、毛という世界なので、ソロバンで計算すると位取りが大変難しかった。
 できるだけ間違いをなくするため、位取りの位置をソロバンに傷を入れて計算をしていた。
 当時社長であった大石が事務用機器の販売に来ていたデモ機を見て単価の計算を早く、そして間違いをなくすることが出来ると判断し、高額だったが購入を決定した。計算機の機種はSHARP COMPET-22 で、(現在よく使われているSHARPの計算機はこの計算機の縮小版で見た目は大きく変わっていない)初めて単価の計算をしたときの感動は今も鮮明な記憶がある。あまりに便利なので長い時問使用したため、計算機が熱をもってエラーが発生し、しばらく団扇であおぎ、熱を取りながら使った。

昭和44年 ビニロンチューブの生産設備を設置・販売開始 昭和45年 ビニロンフラット中間実験設備 昭和45年 大阪万博が開催され「パーコート」が爆発的に売れる 昭和48年 ハイセロンとビニロンの製造を東海樹脂に移す

レジ袋の販売開始

当時のレジ袋

 昭和48年当時、スーパーでのレジ担当は金額を計算する係りと品物を角底の紙袋に詰める係りの2人1組で対応していた。紙袋は早く品物を入れるために角底で重量があり厚いものが使用されていた。紙袋から水に強いポリエチレン製の袋に置き換えられないかを検討していた当社では、5台の試作機を導入し強度テストを繰り返した。三菱化成をはじめとする原料メーカーにも強度アップの品質改良を働きかけ、試作は続いた。これが世界中に広がったポリエチレン製レジ袋の始まりであった。
 当初のサンプルは手提げ部分のない紙袋と同型の角底袋であった。当初は香川県内のスーパーを訪問したが、反応は鈍く、中国地区・関西地区に拡販を図った。オール日本スーパーマーケット本部である関西スーパーを訪問したところ「おもしろい。これは使えそう」 との反応があった。お客様の反応を調査するため、関西スーパーの出口でポリ製レジ袋のサンプルを配ったところ、「紙袋よりポリ製の方がよい。手提げ方式の方がもっと便利ではないか」とのアイデア出された。営業担当の実家でうちわの生産をしており、うちわの外形を打ち抜く機械が思い浮かび、早速金型を作成し、レジ袋100枚を束ねて打ち抜くテストを行い結果は上々だった。
 関西スーパーでポリ製レジ袋が採用され、大手のスーパーから花火が上がる勢いのように問い合わせと注文が殺到した。

昭和50年 大阪営業所を開設 昭和51年 大阪営業所を兵庫県西宮市深津町に移転 昭和53年 九州営業所を開設 昭和54年 東京出張所を開設 昭和56年 オフコン導入 昭和59年 東京出張所を閉鎖

品質保証活動の実施

高瀬工場品質会議

 昭和60年(1985)頃からレジ袋を生産していた部署および社外加工所を含め、品質の向上、不良率の低減や参加意識の向上などの目的により開始した。
 QCサークルは担当及び勤務直別に編成され昭和61年から5年間にわたり活動した成果の発表会が行われ、優秀なサークルには社長より表彰状及び記念品が授与された。
 その他品質向上と不良品撲滅を目標に掲げ、工場毎に品質会議を毎月行い、また製造部門と営業部門の実績報告と生産設備の新設や改善策、その他問題点などの解決を図るため生産販売会議も定期的に開催している。

昭和61年 大阪営業所を西宮市深津町から西宮市甲子園に移転 昭和61年 九州営業所を移転 昭和64年 九州営業所を閉鎖 平成4年 高瀬工場着工

高瀬工場が完成

建設中の高瀬工場

 昭和55年(1980)頃、高密度ポリエチレン部門のレジ袋を体に、販売が順調に伸びてきた。
 本社の旧ビニロンチューブ工場などの建家を使用して増産に対応してきたが、今後もレジ袋の売り上げ増が見込まれ、現在地での増産体制は望めなかったため、移転計画を検討することになった。
 当社だけで建設投資額の二十数億円を捻出することはできず、日本合成化学や三菱化成(現三菱化学)などの支援協力が不可欠であった。
 そのため、資本金の増資案などを三社で何度も検討した結果、移転計画の諸条件が整い、平成4年(1992)高瀬町に新工場建設が承認された。
 平成5年11月には、資本金も3,000万円から3億6千600万円に増資した。

平成7年 阪神大震災 大阪営業所が被害に遭う 平成8年 大阪営業所を大阪市北区堂山町に移転 平成11年 PBTフィルムの販売を開始

新規開発の推進

技術開発室の職員

 開発会議は平成12年(2000)プラスチックフィルムに詳しい人物が、当社に就任したことから始まった。
 当社の製品は、単体(単層)のポリエチレンフィルムが主体で、同業他社はポリエチレン分野に多層(ラミ含む)フィルムを加えた販売商品の構成で、拡販を狙う傾向があった。
 新規商品で拡販を夢に見ていた一人の社員が先導し、最初の勉強会が行われ、その後、勉強会を発展させ、開発会議として毎月定期的に開催し、最近では臭断性を有するPBTフィルムなど新規開拓・用途開発も含め前向きに進めている。

平成21年 高瀬工場製品倉庫完成 平成22年 ISO-14001・9001を取得
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